kobatada2007-01-08



 なんだかんだで、バカやりながら3年生になり、ついに部活生活も最終会を迎えました。心残りがあるといえば、今でも思い出しますね。1回戦負けでした。本当なら3回戦目まで行けそうだったんですが、チームがかみ合わなかったですね。ただ、別に泣きたいとかいう気持ちは無かったですが。それでも、帰りに顧問の先生からもらった1万円でみんなでマックよって、ゲーセンよって帰りました。いま考えても虚しいですね。
 あとは、体育祭ですかね。なぜか最後の締めの言葉を言う羽目になって・・・。体育祭の実行会の先生が部活の顧問の先生でもあったので、副部長ですらない僕のとこにお鉢が回ってきました。まあ、先生も知っている人だったし、文章は一緒に考えましたね。8割方先生の文章でしたが。
 みんなの前に出て、「今新しいひとつの歴史が刻まれました。それは・・・。」という感じの文章だったのを覚えています。あとで聞いた話ですが、父兄の間ではちょっとした話題になっていたみたいです。実行委員の部長の話や生徒会長の話に比べて出来が良いのは、顧問の先生と二人で考えたものだから当たり前だといえば当たり前なんですが。
 中学3年の時覚えているのはこれぐらいですかね。あとは、大して勉強していなかったぁ、ということですかね。公立の中学ということもあり、中1から塾に行っていたので、高校受験自体は大して努力したという記憶が無いですね。それでも、塾に行けば強制的に勉強する時間になっていたので、宿題だけやっていればそれなりに成績は出せますからね。まあ、もちろん第一志望も第二志望も落ちましたけど。
 この中3の受験の真っ最中の一月に転機と言えば転機がありました。父方の祖母が死にました。家のことをグダグダ書いてもしょうがないんですが、母親と父方の兄弟や親とは仲が悪かったですね。それもあって、葬式には行かなかったです。
 この時ですね。ひとつの決心をしたのは。
 ごめん、ばあちゃん。その代わり、がんばって100人幸せにするから、天国で見ていてね。
 これが自分の行動原理のひとつになりましたね。
 あとは、「ナニワ金融道」の作者青木雄二の本との出会いですかね。色々とこの社会の矛盾が書いてあり、ひどく憤りを感じましたね。ちょうどバブルもはじけ、不況の最中だったこともあり、社会ではいじめの問題があちらこちらで叫ばれるようになっていたときです。
 このとき、その本の中には「大人たちはいじめが悪いと叫んでいるが自分達はどうなのか?大企業が中小企業をいじめているじゃないか?それが社会であり、自分達がいじめを黙認しているのに、子供達にはいじめが悪いとなぜいえるのか?子供達にいじめが悪いという前に、自分達がしなきゃならないことが社会にはいっぱいあるんじゃないか?」こんな内容のことが書かれていましたね。
 このときですね。無知は罪であるが、せめて自分の周りの人間、もっと言うと少しでもかかわりのある人間を助けられるような仕事をしたいと思いましたね。それで、法律にかかわる仕事をしたいと決心しました。
 だから、高校に入っても志望は法学部一本。経済学部はちょっと数学が出来たから、一応志望しておいただけで、一年生の頃から法学部志望としか言っていなかったですね。
⇒つづく

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